生き抜くということ

おはようごさいます、山田麻衣です。

 

「生死観」について考えたことはありますか?

 

先日、知り合いの方の投稿を機に

「死」について考えました。

 

生き抜くってどういうことだろう。

 

見送るってどういうことだろう、と。

 

自分の大切な人がそうなった時

命の選択が迫られ自分が決めなければならなくなったら

 

そこに相手の「尊厳」を優先して

自分の感情を中心とせずに

選択をすることが出来るだろうか

 

心からありがとうと

見送ることが今の自分には出来るだろうか。

 

命あるものには

「死」は平等に訪れるはずなのに

 

私たちはどこかで「死」が

身近にないもののように感じ日々を生きているなと感じます。

 

心の準備をする時間がある場合もあれば

突然の場合だってあります。

 

それは誰にも分からないこと。

 

だけどその時がいつ訪れたとしても

受け入れ、送り出せるかどうかは

 

自分自身がどう生きてきたか、

 

どう関わってきたか

 

で左右されるのではないかと思います。

 

(押しつけなどではなく、本当に必要であることを)

相手に対して自分の出来ることは全てやった

と思えたら、別れは悲しくもあるけれど

 

清々しさもどこか感じられるような、

そんな別れになるんじゃないかな。

 

私は以前、医師から選択を迫られ、

回復の見込みはなく延命という形で

 

意識もない中たくさんの管から点滴を投与され

自然に終えるのではなく、

医療の力で出来る限り伸ばし、命を終えた場を見ました。

 

「1日でも長く生きて欲しい」

 

とそう言ってその選択をされていました。

 

その時私は

痛いほど気持ちが分かると思いましたし、

 

同時に意識のない中で

投与され続ける姿を見ることが

 

とても苦しく、辛く感じました。

 

自分だったらと考えました。

 

選択をしなければならないとなった時

自分が治療をされる側となった時

 

どう在りたいだろうか、と。

 

今はまだ自信をもって

 

相手を尊重します!

 

とは言えません。

 

別れを悲しいと感じることは

当たり前の感情だし、

 

それを今の私が

受け入れることが出来るかと言えば

やはり葛藤があります。

 

だからこそ

今やれること、やるべきことをやり続け

 

受け入れる自分で在れるよう

器を広げ、磨き続けていきます。

 

全ては

 

今までどう生きてきたか、

 

その在り方ただ一つ、なのだとそう思います。